じっと手を見る 働けど働けど 我が暮らし楽にならざり じっと手を見る…って、小学校か中学校か忘れましたけど、国語の教科書に出ていましたね。ど忘れしていたのですが、調べてみると、石川啄木の詩だったようでした。手を見ているというのを、ちょっと手相占いと重ねて考えてみたのですが、もちろんこの詩の中に出てきている人が手相占いをしているというわけではないです。ただ、いくら働いても生活が楽にならないときに、じっと手を見ている状況というのは、たぶん手のひらを見ているのだというイメージがありますが、どうしてだろう、なぜ生活が上向かないのか、と考えながら手のひらを見ているんですよね。なんだか、手相占いが、昔からいま現在においても、利用されている、重宝されている、支持されているということが、少し想像できる感じがします。なにか上手くいっていない、こんなはずじゃなかった、あるいは、今後こうやっていくぞ、といったときに、ふと自分の手を眺めることって、自然にありうることのように思います。自分は出来る、大丈夫だ、と暗示をかけたりするときも、手を見るイメージもあります。手相占いって、分かりやすいところでは、シワがあるかないか、それらの関係性で見ていくものですが、相という文字が使われていることからも、空気というか雰囲気というか、感覚的な要素も含まれているように思います。結構手相占いもスピリチュアル要素が強いような気がしますね。 PR